(六)
そうは言ったが、やはり何となく定敬は笛のことが気に懸った。今晩は殊に蒸す夜である。川面の風さえ凪いでいる。
寝間着に着替えたものの落ち着かず、身体が火照る。
素振りにも飽いたので、一鞍責めてみようかと思い、小袖に着替え直して馬乗袴を着けると、こっそり寝間を出て厩舎へ向かった。
柏崎より道中ともにしてきた黒毛の牝馬である。気の荒い越後の馬を、定敬は難なく乗りこなしている。手綱を引けば馬はまるで処女の如く静かに従った。
平沢家の裏手は小川が流れており、其処から下手に行けば阿賀野川に合流する。さらに南には河港が見え、幾つもの三十石舟が舫
(もや)っていた。麒麟山の麓には旧い温泉があるというが、湯煙までは遠くて見えない。
定敬は早足で馬を進めた。民家の灯は殆ど消え失せた刻である。
小姓の一人も付けずに深夜出歩くのが半蔵に知れたら、お小言の一つも言われるかも知れない。
そう思いながら微かに西から吹き寄せる夜風に身を委ねつつ、麒麟山の方角へ向かっていた。自由な髪の間を風が抜ける快感は、得も言われない。
うっそりと欅の茂る中、杣人が作った小径を行く。すると、行く手にちらほらと赤い灯が揺れた。
「獣の眸かはたまた蛍か」
蛍にしてはいやに赤い。訝しみながら近付くが、火は遠ざかる一方で、ふと掻き消えてしまった。狐火ということもあるまい、と定敬は只楽翁の怯えた表情を思い浮かべてほくそ笑んだ。
「狐火というなら尚のこと、その正体確かめてやろう」
定敬は馬を其処らの木に繋いだ。そうして、袴を短くして刀の柄に手を掛け、藪の中を歩いて行った。いつでも鯉口は切れるようにしてある。
かさこそと下草を踏む音がする。己の足音かと思い立ち止まると、二三拍子がずれて音が止んだ。
また進んで止まると、音も止む。いつしか木々が開けた場所に出た。空を見上げると、既に月は中天にある。
覚えずぼんやりと注意を失ってしまった時、突然笛の音が聞こえてきた。
「この音色は」
定敬は四方を見廻した。間違いなく、平沢家の藤吉郎笛の音色である。しかも、下手の吹奏ではない。恐らく相当の修練を積んだ腕前と思われた。
「誰だ」
定敬の誰何に答えはなかった。ただ、演奏は続いている。急度、その者こそ離れから笛を盗んだ人間である、なればこそこのように定敬を小馬鹿にする振舞に及ぶのに違いない。
懲らしめてやる、と定敬の喉元に少し血が上った。と同時に、藤吉郎笛を難なく己の物として操る者を見てみたいという衝動に駆られた。
「名乗らぬのなら、此方から行くぞ」
定敬は潅木の間に踏込んだ。笛の音は止み、逃げる足音が続いた。定敬は追った。相手は黙って逃げる。さらに追う。
貴人は泰然として育つものだが、この若殿は少し違った。刃の味こそ知らねど、自ら敏捷にその細い体で戦場を駆け回っている。幼時より御殿を奔走するやんちゃくれなればこそ、夜の藪を走るには頓着しなかった。
月影が濡れた下草のそれぞれに映り、その波を駆ける兎の如く定敬は走った。
「待て、おぬしは西軍の間者ではあるまいな」
定敬はそう言って、追い詰めた。はっと息を呑む音が聞こえた。
「然らば、斬ることも已むを得んぞ」
すると足音は止まった。定敬は左手を鯉口に添えたまま、慎重に歩を進めた。返事がないのは星を射たということなのか。俄かに定敬の背に汗が滲んだ。斬ると口にしたはいいが、生身の人を斬ったことなどない。据え物にしてもである。相手が相応の手錬なら、それこそ言った手前が間抜けであろう。一人で来たのはやはり浅はかだったか、と少し悔やんだ。
だが、後戻りも出来ぬので、その姿勢のまま、儘よと進んだ。
「己は」
と言い掛けて、かそけく月光の下に照らされた姿を見、定敬は声を呑み込んだ。
一人の娘であった。
女子と判ると肩の力が抜けた。逃げる時に裾を端折ったものか、娘の膝頭は丸見えであった。
十八、九かそこらを幾許も出ていない若々しい卵のような面に、少し捲れ上った気の強そうな口許、大きい眸の娘だった。不細工ではないが、決して美形ではない、猫を思わせる容貌だ。櫛揚髪で簪は挿していない。娘の手には、藤吉郎の笛があった。
顕な膝を隠しもせず、娘は定敬を睨むようにして歩み寄ってきた。
「女子と判って気ィ抜けたがよ」
定敬は面食らった。娘の挑発的な目付きと物の言い方に、一瞬呆気に取られてしまったのだ。
「お、女子がこのような夜更けに一人出歩くとは物騒な」
「ここらの娘っこは皆、晩げうろつくなぁ馴れとるね」
娘は事も無げに言った。定敬は娘の白い膝元から視線を逸らした。
「その笛は」
「知らね。此処に来るまでの道すがら拾ったなし」
「嘘をつけ、嘘を」
定敬はむっとなって言葉を荒げた。娘の白々しい口振りには閉口するが、このままにしておくわけにもいくまい。
「とにかく返せ。その笛はおれが預かっているのだ」
「やんだ」
娘はぷいと唇を尖らせて、笛を後ろ手に隠した。子供じみた仕草である。
「返さねば本当に斬るぞ」
すると、娘はころころと銀の鈴が転がるような高い声で笑った。
「出来っこね」
「他人の言を軽んじるものではない」
娘は首を横に振った。そうして、怯える様子も全くなく、定敬に近付いた。白粉の匂いこそ無いが、若い女独特の甘い香りが定敬の鼻先に漂った。大きく濡れた猫のような眸が、定敬を真っ直ぐに凝視した。
「御前様は蔵屋敷におざった若殿様だね」
蔵屋敷と聞いて一寸判らなかったが、平沢家のことらしいと定敬は気付いた。
何故かと訊き返すのは愚問である。津川村で袴など着けているのは、ついこの間から逗留し始めた桑名藩の一行以外に滅多と無い。しかも、定敬の身形が一瞥して相当の身分を示すことは、誰でも判ることだった。
所作も一朝一夕の俄侍とは違うのだ。
「だったら如何するという」
娘はさらに定敬に近付いた。赤やいだ唇が動いた。
「知っているよ。珍しい総髪の若様は、供の者にも屋敷の者にも偉ぶらず、膳の物もみな同じうしとるということも。そったら殿様がおらみてな女子を斬れるわけがねって」
娘は屈託無く笑った。そうして、定敬の袖を引いた。娘はやにわに定敬の首に縋るようにして、二つの腕を回した。大胆というか、何の真似だと思いつつ、定敬は抗えないでいた。
「御前様みてな上品な男御、はじめて見る。ようぐお顔見せてくんつぇ」
娘の熱い視線と柔らかい体の温みに、定敬は面映くなった。小さなすべすべとした舌先が、定敬の尖った鼻先を湿らせた。
「めげぇ(可愛い)お顔」
娘は笛でも吹くような調子で言い、定敬の口の中に小さい生き物のような舌を這わせた。定敬は、それを軽く噛んだ。
「痛い」と言いながら、娘は匂う若々しい身を定敬にぶつけてきた。定敬は娘の腰を抱いた。京を追われて以来の長い禁欲が、彼を惑乱させ、さらに能動的にさせた。娘は闇中でじっと定敬を見つめたまま、身体を開いた。
娘のなかに入った時、下草の上に藤吉郎の笛が転がったのを定敬は見た。月も暫し流雲に隠れたというのに、青く光ったように見えた。
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