(七)
「昨晩はいやに蒸しました。それで野駆にお出になられたのですか?」
服部半蔵が言った。厭味などではなく、いつもこういう口調なのだが、定敬は何となく素直に答える気にはならなかった。
「お一人では危のうございますゆえ、小姓なりとお連れ下さいませ。出来ましたら日中お出になられますように」
「日中出ても気晴らしにはなるまいが」
定敬は、半蔵のほうを見もしないで答えた。片肌脱ぎになり、真剣にての素振りを行っていた。
昨晩からこのかた、化生に遭うたようなそれでいて快楽
(けらく)の池から上がったような気分がしていた。
それもこれも、藤吉郎の笛の音に呼び寄せられて、若い娘と夜露にしっぽりと合歓してしまったからである。
娘は佐保と名乗った。言葉からして村の者なのだろうが、素姓もよく判らない。農村の明け透けな男女の交わりに馴染んでいるのかもしれず、その意味で定敬に後ろめたさは少なかった。
「それにしても、藤吉郎の笛を奪い損ねた」
些か夢中になり過ぎたか、定敬はすっかり肝心のことを忘れていた。佐保はそれが狙いで身を委ねたのであろうか。佐保の肌は、夏の果汁の滴るように潤んで豊かだった。
「笛の音がしたら出てきてくなんしょ」
佐保は身繕いを済ませると、借りてきた猫のように大人しくなって言った。定敬に文句を返した見幕とはまるで別人のようであった。
「呼ばれて応じるいわれなどない」
と、定敬は些かげんなりして思った。別段、愛慕によって娘を抱いたのではない。
定敬は佐保を抱いている間、別な女の事を考えていた。
佐保とは似ても似つかない。何れがどうと較べる気はないが、彼の女を抱いた事は無い。
今後会うとも判らない。想いを懸ける女と実際に抱ける女は別物である。
ゆえに己を律しているつもりでも、どうしても若い欲望を持て余してしまう。殊に京を発ってからは謹慎余儀なくされていたので、不自由をしていた。
故に、非常時には稀な女犯の機会に遭遇したに過ぎない。
「だが、藤吉郎の笛は取り戻さねば」
そう思うと、また佐保に会うしかないのだ。
翌日は雨が降り、二日経って晴れの晩が来た。今一度、只楽翁に桐箱を確認して、笛が戻っていないのを見ると、定敬は訊いた。
「先日誰か怪しげな者がこの屋に入らなんだか?」
「はて、存じませぬ。下働きの者がこの部屋にも掃除をしに入ったかもしれませぬが。この箱には決して触れぬように申し付けとります」
老人はそう答えた。
「その者たちの中に若い娘を持つ者はいるのか?」
「いえ、おりません。水夫
(かこ)は出稼ぎばかりで、台所女は御覧のような婆か小さい子のおる嫁こばかりです。如何なされました?」
逆に老人に訊き返されて、定敬は口を噤んだ。
「笛を探しに行く」
とだけ答えて、定敬は只楽翁の部屋を出た。
果たして山の麓まで馬を駆って行くと、佐保の姿があった。片手に藤吉郎の笛をぶらぶらとさせていた。
「その笛を返してはくれぬか」
定敬は、唇を引き結んで言った。甘く見られてはなるまい。
佐保は大きな眸を瞬いて、やんだと首を傾げた。そして、駆け寄って定敬の腕に抱き付いた。
「若様」
「離してくれ」
そう言いながら、本当のところは娘にこうされるのを待っていたような気もした。
「好き。若様のことが好きよ」
定敬は困った。頭の中で困ったことだと思いつつ、我知らず娘の身体をきつく抱き締めていた。
「御前様は大勢御家来を連れておられるね。村では知らん者などおらん」
佐保は、抱かれながら喋った。
「何処からおざったの?」
「言えるものか」
定敬は、ぶっきらぼうに答えた。愛撫も尽きてきた。
「何処へ行きなさる?」
「もっと言えるものか」
「会津のお城に行くんだね。官軍が来た言うとる」
官軍と呼ぶな、と定敬は呟いた。佐保は定敬の利発な眼が曇ったのを見て、口を噤んだ。
それから何度か、定敬は夜一人で野駆に出掛け、佐保と逢った。無論、藤吉郎の笛を返して貰わねばならないからである。だが、それは口実であって、最早娘を抱くことに意義を見出しているのでは、と定敬は己の浅ましさを思った。
そして、相変わらず遣る瀬無いまま、行為の間中別な女のことばかり考えてしまう。
「やはり、あの笛はおれには分不相応ということか」
何も考えないと、ふと弱気になってしまうのであった。
或る晩、別れ際に定敬は佐保に向かって言った。
「そなたの笛を聴かせてくれぬか」
佐保は暫しぼんやりと定敬を見つめていたが、頷いて藤吉郎の笛を奏で始めた。微かに異国情緒の匂う起伏に富んだ音色。「おれでは斯様な音律は出せまい」と思うと同時に、諦めもついた時、笛の音が止んだ。
「何故止める」
定敬が訊き返すと、佐保はいやいやをして、彼の肩にむしゃぶりつくように縋った。
「やだ。行ってはやんだ。お城へ向かうのでしょう?」
定敬は答えない。
「行ってはやだ。御前様、生きて帰れぬ。御前様のお性分なら命なげでしまう」
「そのように言われたところで、致し方ない」
定敬は言った。もとより、討死するなら武士の本懐であろう。
それにしても、一軍の将たる己までもが死を覚悟する状況を招くのは考えたくないが。それでも、無理矢理引き剥がした佐保の黒い眸が潤んでいるのを見た時、定敬は流石に絶句してしまった。
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