(三)
葬場祭の最中も、ずっと私の生母である名賀子様はさめざめと泣いておいででした。弟・容大
(かたはる)をお生みになられた佐久子様のほうは気丈に、それでも時々赤い目を擦るようにしておられました。容大は私と同年ですが、末っ子の保男はまだ十五になったばかり。泣くなと言えませんが、必死で堪えている様子でした。
おかしな話ですが、私ども子供は生母といえども「お母様」と直々に呼べませんでしたので、敢えて名賀子様、佐久子様と呼ばせて頂いております。
ところで私はといえば、葬儀の忙しなさも相俟って、ご臨終の際は滂沱と流れた涙も落ち着いておりました。
最早これまでのように癒える病ではなく、死の床であると誰もが覚った頃、英照皇太后陛下からお父様にご下賜の品が参りました。
一瓶の牛乳でございました。貴族院議員をされている山川浩様のお取り計らいで、皇太后陛下より賜ったということを私が知りましたのは、それから二年も経って山川様がご持病でお亡くなりになられた時でした。
お父様は痛むお身体を起こされ、感涙に咽びながら薄茶色した牛乳をお飲みになられました。珈琲と砂糖を加えておられました。牛乳を飲めないお父様へのご配慮も喜ばしかったのでしょうか、お父様は最後の一滴を飲み干されるまで、始終嗚咽なさっておられました。
そのお父様がいけなくなられたのは、牛乳を賜ってからおよそひと月後のことでした。
ご臨終ののち、お父様が終生肌身離さず持ち歩いておられた小さな竹筒が開かれた時、お母様がたも弟達も皆がわっと涙に暮れました。お父様が京都守護職時代、孝明帝より賜った御宸翰でした。後にも先にも天皇陛下御自ら、武家にこのような御詞を賜ったことはお父様のみでございます。
そのように帝のご信任篤かったお父様が逆賊などである筈が無い、と思って子供達は育って参りました。お父様御自身は黙してお語りになられませんでしたが、色褪せて奇怪な光沢を帯びた竹筒と、それを結ぶくたびれた紐が何よりそのお心を代弁しておりました。
「吾れは国賊に非ず」
と。帝の楯となり、時には弓矢となって朝廷をお守りしてこられたお父様の誇りが御宸翰そのものであったのです。それは竹筒とともに棺には入れず、後世まで語り継ぐべき事として弟・容大が保管をすることになりました。
斎主祓詞・修祓が終り、玉串奉奠の参列は絶え間なく続いておりました。木枯らしの吹き荒ぶ中を、こんなにもお父様の為に人様が尋ねて来て下さるとは感無量でございます。
それでも中には「第一等の国賊め」などと罵り言葉を掛けるためにやって来る小役人のような人もいて、大層緊張いたしました。
どんより曇った空の下を、フロックコートの細身の紳士が現れました。
「定敬おじさま」
私ははしたなくも、おじさまに纏い付かんばかりに駆け寄りました。定敬おじさまは私の顔を見ると、お年よりも幾分若くお見えになる端正なお顔を悲しげに曇らせました。後から初子おばさまもお見えになられました。
「少しお痩せになられましたか」
私は、おじさまに屈託無く言いました。おじさまは頷かれました。少しくご病気をなさっておられたようです。
お父様と最も親交が深く、私も幼い頃から可愛がって頂いた定敬おじさまを、それこそどの御親戚よりも信頼申し上げておりました。幼い時に私が、「おじさまの嫁様になる」などといってだだを言ったことがある、と名賀子様が言っておられました。
けれど何より、定敬おじさまは京都時代よりお父様を影になり日向になり支えて下さった、唯一のご兄弟であられます。尤も、東京に住んでのちは、政府の目もあってあらぬ疑いを抱かせてはなるまいと、滅多にお会い出来ませんでしたが。
そうして山川浩様、健次郎様ご兄弟がお忙しい中お見えになり、原田対馬様も、と次々に弔問に来られる御方の中に、藤田五郎様もおられました。藤田様は戊辰の役で会津に命を捧げんと、新選組を離れて残って下さった心強い御方でした。何度か実家へ来て下さり、お会いしたことがございました。今は山川様のお薦めで警視庁を退職後、東京師範学校にお勤めだとお聞きしています。
けれども、弔問の方がたの中にあの御方はおられませんでした。
しずかに明治二十七年を迎えようとする或る日のことです。霜が降りた寒い早朝でした。
一人の人夫装束の若者が桐箱を抱えてやって来ました。私は急いでお母様がたを起こし、その桐箱を開けてみると、一通の文書とガラス瓶に入った薄茶色の飲物がありました。
「美弥子様、これは静岡の御隠居様からでございますよ」
と、名賀子様は血相変えて手紙を広げておられました。その仔細をここでお伝えするわけには参りません。慶喜様からそう、手紙の最後にしたためておられましたので。
「何でしょうか、この飲物は」
お母様お二人は、私に瓶の中身をお尋ねになりました。
「これは佐久子様、名賀子様。カッフェー・オウレという飲物です」
「牛乳にしては妙な色だと思いました」
「いいえ、牛乳ではありません。珈琲と牛乳を合わせたものに砂糖を混ぜたものですわ」
答えながら、私は涙が溢れ出すのを抑えることが出来ませんでした。
慶喜様は弔問に行けぬことを詫びて、おん自らお淹れになった珈琲でカッフェー・オウレを作られたのです。お父様が何故、二十数年も珈琲牛乳をお口になさらなかったのか、今判りました。大坂城でお三方が一堂に会して飲まれたこの飲物は、回天を経てのち、お父様にとって過去の蟠りの象徴となっていたのではないでしょうか。
私は、あの時「牛乳を入れておくれ」と仰ったお父様のやさしげなお顔を再び目の当たりにしたような心地がいたしました。
しかし遅かったのです。
お父様が何もかもご自身でお諦めになられるまでに、本当はこのカッフェー・オウレが届いていれば。せめてあと三ヶ月早ければ。そう、何もかもが遅かったのです。
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