あとがき
 
 むしろ解説のようなもの。
 バリアラビカ種というコーヒーがある。酸味が強くて香が高い。子供の頃はそれを自宅でよく飲んでいた。インドネシアのアラビカ種コーヒー豆だ。 インドネシアで有名なのは、カネフォラ種・品種ロブスタだが、1870年代に入ってコーヒーの疫病サビ病大発生があり耐性があるロブスタの植裁はそれ以降であるので、バリアラビカが将軍様の飲んだコーヒーとして有力だと思える。当時プランテーションで豆を栽培していたオランダ人経由でフランス人によって横浜で買われたのではないか。
 さらに、渋沢栄一の残した滞仏日記に「カッフへェー(コーヒー)という豆を煎じたる湯を出す砂糖牛乳を和して之を飲む頗る胸中を爽やかにす」という文章がある。
 日本人がコーヒーという異質の文化を享受するにあたって、当初は今現在あるような賞味の方法ではなく、いわゆる上述のような飲み方が先んじてあったのではなかろうか。

 松平容保は会津落城ののち、挙藩流罪ともいえる処置を受けて斗南藩へ移住、しかし間も無く廃藩置県となって明治新政府からの命令で領民を置いていかざるを得ないまま出立した。養子・喜徳(慶喜の弟)は水戸家へ復し、容保は日光東照宮の宮司に任命された(明治十三年〜十七年と間に柳沢保申が任命されたが、わずか九ヶ月で、再び容保が任命され明治二十六年まで務めた)。容保が病を得て辞職、没後は翌二十七年に弟の定敬がその後を継ぐ。
 「高須四兄弟」という言い方がある。おそらくは明治十五年あたりに撮影されたと思われる一葉の写真があり、全員がフロックコートに山高帽を手にしたものである。前列左から松平定敬(松平義建の八男)、一橋茂栄(松平義比)(五男)、後列左から松平容保(七男)、徳川慶勝(次男)という並びである。慶勝と定敬では二十二歳の年の差があるが、やはり似た兄弟だ。それぞれの実家である高須家(義建の十男・義勇が継いだ)とはずっと交際があって、実現した写真撮影ではなかっただろうか。その中でも、定敬の若々しさ(おそらく36歳くらい)に比べて慶勝が年相応に老けているのはわかるが、容保の痩せて老いた姿が少し物悲しい。写真から伺うに顔の作りと背丈のバランスがいいだけに、往年の美青年藩主が、艱難辛苦に満ちた強烈な体験を経た恐ろしさを知った。
 さらに、容保最晩年の写真を見たが、五十代後半とはいえ見ようによっては六十代とも七十代とも思える枯れた容貌で、その双眸だけが青年のように黒々と、何処か此処ではない世界を見詰めているように思えた。
 晩年の容保は第六天町(現在の文京区小日向)に住み、容保死後は徳川慶喜が第六天町に住んだ。

 容保の側室・佐久の方(田代孫兵衛娘)は、弘化4年(1847)12月8日生。長男・容大(慶三郎)(11代)、次男・健雄、五男・英夫、七男・保男の母。ぽっちゃりした人だったという。
 もう一人の側室・名賀の方(川村源兵衛娘)は、弘化元年(1844)5月5日生。はじめ「喜代」。長女・美称(みね)、次女、三・四男、六男・恒雄の母。細面、やせぎすで、三味線を弾き、粋筋の感があったという。この話の語り手美弥子は、兄弟の唯一の女性で、長女である。
 容保は正室・敏姫を亡くした後、正室を迎えなかったため、容保の子供に「母」と呼べる人はいなかった(「母」と呼べるのは正室のみ)。このため、五男で12代の保男は、「兵学校の卒業式に皆、両親が来ているのに、自分には母がいないのが淋しかった。また母を母と呼ばせてもらえなかった」と回想している。
 なお、六男恒雄の娘がのちの秩父宮勢津子妃となり、ここに天皇家との関係が復活し、かつて国賊の汚名を着せられた会津の悲願が実ったと言われた。昭和十三年には、会津松平家の和子さんが徳川慶喜家の慶光氏(第十七代当主)に嫁いでいる。歴史ファンにはある種の感慨があるかもしれない。

【参考書籍など】
 『写真集 松平容保の生涯』 小桧山六郎/新人物往来社(2003年)
 『徳川慶喜家にようこそ わが家に伝わる愛すべき「最後の将軍」の横顔』 徳川慶朝/文春文庫(2003年)


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