(三)
床に伏しがちなというだけあって、忠兵衛はやつれた面差しで定敬と対座した。
といって、臆した風はない。さすがに前は大名家、高家などに出入りしていただけあって、忠兵衛の物腰は落ち着いていた。
「これは松平様。わざわざ手前のような小者の見舞いにお伺い頂き、有難く存じます」
すっかり痩せ細った身を、畳鰯の折れるように折るので、定敬は制した。
「堅苦しいのは抜きにして、単刀直入に申せば、おれは先日おぬしのところの虎の屏風を手に入れた」
忠兵衛の目が大きく開いた。
「三河屋を悪く思わんでくれ。おれの方から無理矢理買い上げたので、先方は儲けというつもりはない」
定敬が言うと、忠兵衛はいえ、と小さく首を振った。
「あの様な不吉の屏風を」
「ときさんには気の毒な事だった。だが、あの屏風の虎が人を襲ったなどという根も葉もない噂が気になってな」
「……松平様。御前様がお持ちになられて幾日になられましょうか?」
忠兵衛は申し訳なさそうに訊いた。
「二日ばかり」
「何も異変は?」
今のところは起きていない筈である。屏風は麻布竜土町の琉璃の家に帖紙を掛けられてある。
「然様ですか」
忠兵衛は小さく答えつつ、伏し目になった。定敬は、主人の横顔にくっきりと隈取られた深い皺に心労の跡を見た。
「ところで、彼の屏風何ぞ謂れでもあるのかい?」
「謂れと仰せられますと?」
「人喰い虎と噂されて然るべき謂れをな。真に迫れば絵に描いた雀でも抜け出るというような」
知恩院の狩野信政の襖絵である。はい、と忠兵衛は伏し目勝ちのまま答えた。
「抜け出すのが雀なら可愛らしうございますが――まさかに、まさかに虎が抜け出ておときを喰い殺すなぞ……うっ」
忠兵衛は頭を抱え込むようにした。嗚咽が響いた。
「済まん。思い出させてしまった。忠兵衛、申し訳ない」
忠兵衛はもごもごと口を押さえつつ、首を振り、顔をゆっくりと上げた。
「いえ。申し訳ないのは、この老いぼれの方にございまして。……取り乱してしまいました」
一旦顔を上げると、忠兵衛はお店の主の面持ちを取り戻した。
「まずは、おときが死んでいた時のことからお話いたしましょう。何と申しましても、いえ何度考えましても、あの娘に全くの非がなかったとは言い切れんでしょう。親としてやはり、それは身贔屓したくともならない事実です」
ときが玄関で血塗れになって倒れていたのを発見したのは、初めに住み込みの女中だった。
女中が夜中に小用を足しに厠へ行き、その帰りである。
使用人の厠は裏庭にあり、一旦建物の外へ出ることになる。その時、裏門の戸が少し開いていたのに気付いたのである。
確かに戸締りはした筈なのに、と女中が奇妙に思い、更に「まさか盗人では」と疑って裏玄関も確かめに行った。
戸を開けた途端、女中はときの骸と血塗られた屏風の虎を目にしたのだった。
女中はその場で気を失い、翌朝になって通いの番頭に発見された。
「番頭の名は?」
「球磨次といいます。年の頃は三十一です。三年前に知己の小売商の娘さんと娶わせて、外へ出たのです」
「いずれ乙訓屋の暖簾分けを考えておるのだな」
定敬は言った。本筋には関係のない話だが、一応一通りのことは訊いておく。
「然様で。しかし乍ら、忠吾郎がまだ半人前ですし、暫くは一番番頭として働いて貰うという約定なのです。球磨次は長崎に居たこともあり、唐渡りの薬材にも詳しく、朝鮮語も少しはわかるので大事な男です」
「ほう。それで暖簾分けは甥御の寛治郎さんではなく、球磨次さんへ」
「寛の字のほうは、商才はそこそこ口八丁で、手前もいつも遠出には同行させておる程ですが、余り学がございません。昔からの学問嫌いで、商家の癖に算盤もろくに出来ないのです」
「成る程」
と、定敬は出された茶を飲んだ。先程、この茶を出してきたのがときの死骸を発見した女中なのだろう。不意の闖客しかも世が世なら顔を拝む事も叶わない高貴の人を間近で見て、どぎまぎしながら出て行った。
「ときさんに再婚の話などなかったのかい?」
「えッ」
「唐突だったかな。いや、寛治郎さんと一緒になるとか、そういうつもりはなかったのかと思ってね」
すると、忠兵衛は「とんでもないです」と手を振った。
「私はときの身を案じておりましたが、当の本人が嫁になど二度と行きたくないと申しまして、専ら店の手伝いを。余程か先様で嫌な思いをしたのでしょう。子供が出来ないのを苦にしておりましたから」
「浮いた噂もなく、よく働いていたようだね。尚更惜しい事をした」
「はい。痛み入ります……」
何やら歯切れが悪い、と定敬は感じた。
「それは兎も角、まだ屏風の謂れを聞いておらんかったな」
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