(四) 
 

 虎が乙訓屋に持ち込まれたのは、ひと月程前のことである。
 店に一人の男が訪ねて来た。
 男は無精髭をたくわえ、少し前でいうところの尾羽打ち枯らした浪人風だった。最早、明治も開けて七年になんなんとする現在、浪人というのもおかしな身分だが、まだまだ旧態を引き摺っている世の中でもあり、男はまさしくそうとしか言いようがなかった。
「球磨次という者を訪ねて参った」
 と、浪人は物々しく言った。刀が無いので何処と無く滑稽感が漂う。
 丁稚は慌てて球磨次を呼びに行った。驚いたのは浪人の方で、それも昔男の知っている球磨次とは見違える程立派な風情だったからだろう。
 その晩、球磨次は暖簾を下ろした後で、忠兵衛に話があると言った。
「実は、今朝ほど訪ねて来ました浪人体の男のことでして」
「成る程、どうりで昼から何やら浮かない顔をしているかと思えば。何ぞ困り事でも相談を持ちかけられたのかえ?」
 忠兵衛がやんわりと訊き返すと、球磨次は頷いた。
「或る物を購って欲しいと頼まれました。しかし、高直なものなので、即答しかねると申しましたのです。すると、仁太郎という名の男なのですが、彼は私にこう言ってきました」
 球磨次当人でなくともよい、店に口を聞いて貰うというのはどうだと。
 いやに押し付けがましい口説ではないか。だが、忠兵衛は静かに吐息を漏らしただけで、
「その仁太郎という男、お前さんが義理を負うほどの男なのかい?そうなのかい?」
 球磨次は黙ってしまった。
「……皆まで言わんでもいい」
「はい。長崎に居りました時に世話になりまして。それはもう、実の兄の如く、私が食えなくて困っている時、仁太郎さんには自分も食うや食わずというのに、一つ握り飯を分けて貰うようなことも」
「それはお前さんも随分と苦労をしなすったと聞いたからね。六つで両親に死なれ、叔父のところを追い出され、その後漢方薬種屋に丁稚に入るまでのことだねえ」
 球磨次は乙訓屋生え抜きの雇い人ではない。忠兵衛がたまたま長崎奉行関係の仕事で赴いた時知り合って引き抜いたのである。それが、球磨次十八歳の頃だった。
「江戸――東京に参りますまでの付き合いでした。その後、御一新前後のごった返しで音信不通になり、今日まで」
「そいつはまた会えてよかったじゃあないかい」
「ええ……」
 球磨次の顔は嬉しいというよりは、戸惑い半分のように見えた。
「それでお前さん、恩人に報いるという心は見上げたもんだよ。この忠兵衛に相談とは、いったいどういう売り物なんだい」
「屏風にございます」
「如何程の?誰の絵かい」
「虎図です。李朝の絵師・申景保という元宮廷絵師が描いたものなのですが」
 仁太郎は、それを千円で買ってくれと球磨次に申し出たのである。
 さしもの忠兵衛も、これには瞠目した。千円というと、大店の商いには驚くほどのこともあるまいが、仕母立屋の二、三軒は建つ価格である。
「元宮廷絵師の筆、唐渡り物といってもそれは存外な。仁太郎はお前さんに恩を売ったのをねたに、ふっかけておるのではないか?」
「そうとも考えました。しかし……」
 仁太郎は、球磨次にある事を告げた。
「只の屏風絵ではないのだ。虎が抜け出すのだ」
 よくある名絵師に付き纏う噂の類か、と球磨次は鼻白んだ。だが、現物を目の当たりにした時、これはさすがにさもありなん、という迫力を感じた。
「もし疑いあるなら、本当に虎が抜け出るか否か、証明してみせよう」
 と、仁太郎は言った。
 その晩、屏風を覆っていた縛めと布を解き、座敷へおいてその前に籠に締めた鶏を五羽入れておいた。もし、虎が人を襲うようなことがあるといけないと、同室ではなく隣室の端に床を敷き、仁太郎と球磨次は並んで寝に入った。
 深更、異様な気配に球磨次は目覚めた。
 何やら隣室から獣めいた息づかいが聞こえてくる。
 それは次第に荒くなり、物を引き倒す音がしたかと思うと、次にばりばりと何かを噛み砕く音がした。
 球磨次は心臓が凍りつく恐怖を覚えた。
 得体の知れない、だが巨躯を持った獣らしき存在が襖一枚を隔てた向こうにいる。
「まさか、本当に」
 そう思い始めると、寝られない。
 いつ襖を破って襲ってくるかくるかと、また身じろぎ一つ布擦れの音さえも立ててはなるまいと、必死で息を殺していた。
 やがて、朝になった。
 球磨次は己が無事であったことに覚えず声を上げた。
 その声で、仁太郎が目覚めた。
「昨晩、抜け出た筈だ」
 仁太郎はそう言って、静かに襖を滑らせた。
 すると、隣室の畳一面に鶏の羽が散らばっていた。籠は倒され、勿論鶏など一羽も見えない。屏風の方はというと、虎は確かに一寸足りとも描かれた姿のまま動いていない。
 ただ、虎の口元には薄っすらと血の色が滲んでおり、仁太郎が触れると鶏の茶羽がひらひらと舞い落ちた。
「――本当に虎は夜中に抜け出し、鶏を喰らうたのです」
 球磨次は興奮気味に言った。
 この誠実な番頭の言うことだから、嘘とも否定し難い。しかし、忠兵衛はやはり仁太郎が仕込みをして、虎が抜け出ると思わせたという気もする。
 それ故に、忠兵衛自身も確かめたいと言い、同じ事を球磨次に代わって試してみた。
「――不思議のことにございます。それが全く球磨次の言う通りだったのです」
 忠兵衛は屏風を千円で引き取ることにした。

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