(五) 
 

「虎が生きて抜け出すとはねえ。いったいその申景保という絵師は、何者なのだ?」
 定敬は半ば感心、半ば疑念を抱いた口調で忠兵衛に糾した。
「経歴はよくわからないのだそうです。仁太郎が何故そのような屏風を有していたのかということも、何しろ浪人生活が長いというのに、それまで売りもせず持っていたのですから、相応の愛着はあったのでしょう」
 球磨次が聞き及んでいる限りでは、李は対馬の朝鮮大使館を通じて長崎に入り、暫く地元に住む朝鮮の絵師や陶工の指導をしていたというから、それなりの身分の人間であったのは間違いない、という。
 仁太郎はどういう経緯か、李と知り合い一幅の虎図を貰ったということだ。詳しいことはわからない。
「今更、屏風を売却したいという事情は、やはり金に困じてのことだろうか?」
「浪人ですから、いろいろとあったのでしょう。しかし、調べてみますと李景保は虎図を描いてすぐに亡くなっています。友人の形見ともなる物ですから、手放しにくかったのでしょうか」
「虎図を描いてすぐに死んでいる?」
「ええ。ですから――私にも些少の下心がございまして。今後もしもっと李の作品の値打ちが上がるようなことがあるのなら、虎図はまさに遺作となります。千円で購うても安い物だと考えたのです」
 さすがにその辺りは商人である。忠兵衛はだが、恥ずかしそうに言った。
「曰くのある作品だな」
 定敬は虎図を思い浮かべた。
 確かに凄まじいまでの現実味と迫力を帯びた筆致。半ば開きかけた虎の口腔の赤さは生々しいものがあった。
「面妖な話です。李は労咳で、大喀血を起こして寝所で冷たくなっていたというのですが、それこそ彼のような身分ある者なら、相当な治療も受けられた筈です。ところは崎陽(ながさき)ですし、朝鮮人参も多く出回っていたというのに」
 忠兵衛は薬種問屋らしく言った。
「敢えて医学や薬を頼みとしない、という人間も多いというが」
「然様でしょうか」
「おれはそうではないが。だが、彩管や文筆を生業とする者には変り者が少なくないそうだ」
 定敬は苦笑した。
 とにかく虎図を引き取った忠兵衛は、それを早速母屋の玄関に移した。裏玄関と呼んでいるが、店に対しての呼び習わしであって、私用の客は此方から入る。
 訪問客は、その度にまるで今にも式台を下りて向かってきそうな虎に驚き、見入ってしまったと忠兵衛は語った。
「それから程なくしての事です。私の留守中に訪ねてきた者がありました」
 忠兵衛を訪ねてきたが、留守というので代わりにときが応対した。
 招じ入れてみると、その客人とはまだ十四、五の少年少女であった。二人共よく似た美しい顔立ちで、兄妹と思われた。ときは、まさか父の余所で生ませた子かと瞬時思ったという。
 が、意に反して兄妹は己らの素姓を語り、
「お宅に父の描いた虎図があると聞き及びましたので」
 兄は流暢な日本語を喋った。
 兄妹は、絵師・李景保の子供であるというのだ。確かに服装もそうだが、雰囲気も朝鮮の人のようである。
「まあ、それでは亡きお父君の絶筆となった絵を見に来たのですね」
 ときは感動して、そう言った。すると、兄妹は申し合わせたように首を横に振った。
「いいえ、あの虎図を返して頂きたくて」
「どういう事ですか?」
「そもそもあれは誰に譲ったわけでもなかったのです。死期を悟った父(アボジ)が私達兄妹に遺していったものを、浪人が奪い去ったのです」
 兄は悲しげな声で訴えた。
「兄さん(オッパ)の言うように、盗まれました。お蔭で私達は長崎にもいられず、国に帰ることも出来ず、見世物小屋で糊口をしのいで……」
 妹は言葉に詰まり、双眸に涙を溜めて俯いた。
 聞けば酷い話である。球磨次が忠兵衛に語ったのとは、丸きり違うではないか。
 ときは困惑した。
 兄妹を少し待たせておいて、とりあえず別室に球磨次を呼んだ。
 そうして、兄妹が語った事情を球磨次に聞かせた。
「そんな、お嬢さん。仁太郎はそのような出任せをふっかけたり、盗みをするような男ではありません」
 球磨次は、半ば憤って言った。
「でも本当かしら。……今更になって、お前を訪ねて来て押し売って行ったのよ」
「火急の金が必要だったのでしょう。しかし、仁太郎さんは命の恩人です。その本当に絵師の子供かどうかもわからない兄妹とどちらに信用がおけますか?」
 言われてみれば、そのような気もしてきた。
 確かにまだあどけない少年少女とはいえ、芸を売って生きて行く術を知っているなら、処世にも長けているだろう。人前で泣く事も容易な芸なのかもしれない。うまくいけば金を貰って絵まで取り戻せるのだから。
「そうかい。球磨次、お前がそう言うのならねえ」
 ときは頷いて、再び客間へ戻った。

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