(三)
翌朝、連れの男が別の仮宅からやって来て、芹沢を起こして出て行った。身支度をする芹沢が煙草入れを懐に仕舞い、腰に印籠を吊るした。
「綺麗な根付ですね」
りくは蝉の形をした根付を見上げて、言った。世辞ではなく本当にそう思ったからである。芹沢は、振り返った。
「これはな、うにこうるという舶来の材料で拵えたんだ」
「うにこうる?」
「判らんでもいい。北の海に泳いでいる鯨のような魚の角だ。こいつは薬効があるんだというがな」
りくにはその価値が判断出来ない。恐らく、鼈甲のように高価なものだろうということくらいしか判らない。
「幾つか持っている。欲しけりゃやろう」
いえ、とりくは首を振った。芹沢は小倉袴を整えながら、座り直し、飲み残した酒をまた呷った。象牙に似た色の根付を手にしてりくの方に翳しながら、
「蝉の形だ。清国では蝉は縁起がよいものだ。役人は蝉の羽の透き通るように潔白だということを重んじる。武士もそうありたいものよ」
そう言った芹沢の目は酔いが覚めており、澱みが無かった。りくが芹沢に会ったのは、これが最初で最後である。
不思議な事に、そののちりくの瘡は見る見る快方に向かった。あばたもなくなり、不快だった手足の痺れもすっかり癒えて、ただ青白い顔色と痩せた身体は戻らなかったが、客を取っても支障の無い程になった。
「これも芹沢様の御蔭です」
りくは、斎藤に向かってそう話した。斎藤は釈然としなかった。自然のままにして、瘡が治ったというのはいまだかつて聞いたことがない。釈然としないまま、朝まで飲んで仮宅を出た。
三日ののち、医学所へ処方を貰いに行くついでに松本良順に訊ねてみた。
「先生、瘡というものは自然にうっちゃっておいて治るものでしょうか?」
すると、良順は首を傾げた。
「梅毒は簡単に治るものではありませんよ。たまに、一時期症状がおさまって治ったように見えることもあると聞きますが、放置しておいては進む一方です」
「瘡の女と寝たらうつりますかね、やはり」
「そうです。何か心当たりでも?」
いえいえ、と斎藤は大きく頭
(かぶり)を振った。医学所を出たあと、そぞろ歩きながら斎藤はふと腰に手をやった。根付を指先で触れながら、考え事をする。
思えば平生の芹沢は泰然として博識で、筆頭局長に相応しい風格を備えていたが、酔漢となった芹沢は手に負えないただの暴徒のようであった。
梅毒の症状がすすむとだんだんに頭がおかしくなるという。
ある時、ぐでんぐでんに酔っ払った芹沢が宴席で蝉の根付を斎藤に譲った。しかし、翌日になるとその事を失念しており、傍に居た佐伯又三郎がかねてより、うにこうるの根付を欲していたことを疑って、やにわに斬り付けた。佐伯は、その傷が元で即死した。
斎藤は、折りしも見廻りに出ていた。屯所に戻って根付のことを言うと、芹沢は「そうだったな」と、あっさり答えただけであった。佐伯の事には糸屑ほども言及しなかった。
頭がおかしいというのか、何かが欠落してしまっている、という気がした。
和泉橋を渡り終えると、武家屋敷が連なる路地へと出る。築塀の上から黒々とした艶やかな枝が天を向いて伸びていた。其処に、三つ四つの紅梅が開いていた。埃っぽい江戸の正月も、もうじき終わる。
雪霜に色よく花の咲きかけて 散りても後に 匂う梅が香
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