(一)
むっとする草の青い臭いの中を半蔵は歩いていた。
二月の初旬。春はまだ浅いが、草は萌えていた。此夜は生温かい空気に包まれている。
北野天満宮付近のこの辺りは、少し小径に入ると人家も稀になる。行く手の闇の向こうには、華やいだ灯りがぽつぽつと点っている。
上七軒の茶屋、揚屋であった。
藩主の名代として諸行事の挨拶に行った北野天満宮北の宮仕屋敷を出た頃は落陽がまだ残っていたが、南へ下っているうちにどんどんと東の空が紫になり、藍に変化してきた。その妙を感じる暇もなく、途中船岡山の麓を横切って歩いた。
草葉の間からがさごそと音がし、時折女のなまめいた声が洩れる。
この辺りは私娼の巣窟といえた。
半蔵も初めて聞くものではないが、やはり弱冠の男子の身には気恥ずかしいものがあった。いつも早足で通り過ぎる。
「江戸にも夜鷹は多いが、ここまであけすけではない。王城の地とは何事もこういう気風なのだろうか」
と、不思議に思う。
京の公娼は島原の地と東照神君の頃から決まっている。最近は、祇園や三本木なども流行っている。
だが実際に島原よりも古い伝統を持つのが、北野天満宮の門前町である上七軒であった。
北野新地の歴史は浅いが、芸妓は一等の女でそれなりに格式のある遊びである。半蔵も公用人らに連れられて行く。満更知らないでもない。
金も粋もない庶民、若い衆は水茶屋で遊ぶ。
しかし、それも面倒、金も惜しいが女は抱きたいというのが、所謂辻君、江戸でいう夜鷹を買うのだった。
公許のものは島原遊郭のみといいながら、実質徳川幕府は私娼を見てみぬ振りをしている。
尤も、新地などに置かれた非公式の売笑窟や曖昧宿は数知れず、まして夜毎辻辻に立つ袖引き女を取り締まるなど、不可能である。
半蔵の主君である京都所司代・松平越中守定敬も、これにはむしろ、
「京に蔓延る不逞の浪士どもが辻立女の商売を踏み倒したり、或いは危害を加えんとするようなことあらば、断固処分のこと。か弱き婦女子をいたぶる連中など、勤皇にもお上の配下にも一人として容れざるゆえ、この所司代が責任を持って京の治安を守らんとす」
喝として奉行所、見廻組らに命じている。
遊女
(あそびめ)が遊女となるにはそれなりの事情がある。それは咎めず、市民の治安維持に努めることが京職の最優先事項であるとする。
半蔵も、この己より一つ年下の若い主君の考えに同意していた。
ゆえに、辻君の商売の邪魔立てはせず、そそくさと去るに如くはなし。
ところが。衣を裂くような声が半蔵の耳に飛び込んで来た。
どうやら、草叢の中からである。
「いやや。何すんのあんた、ひとごろしっ」
剣呑な叫びとともに、半裸の女が飛び出して来た。それを追って、尻っ端折りの男が出て来る。
「待ちやがれ女
(あま)」
勢いだけはよかったが、男は道端に立っていた半蔵の姿を認めるや、首を竦めた。着物の裾を落とし、腰の物に手を掛ける。浪人と思ったが、それにしては身形が良い三十男だ。
辻立女は半蔵の後ろに回り込んだ。
「お兄さん、助けとくれ。この強突く者
(ごうつくもん)、うちとして踏み倒そういうんですわ」
半蔵は袴の折を掴まれ、身動き出来なくなってしまった。
「そんで、銭払うとくんなはれ言いましたら、うちの首を絞めようと」
女の訴えに、半蔵は聞き耳を立てながら、男の顔をよく見ようと提灯を掲げた。男は血気に逸っていた為か、刀の柄に手を掛けたまま、半蔵を睨んだ。
「邪魔立てするなら、貴様も斬らんとも限らん」
男は鯉口を切った。言葉からして、江戸者のようである。江戸諸藩から在京任務として派遣された者か或いは二条城番の組士か。浪人でなければ京で府内の言葉を使う二刀差というのは限られている。
だが、半蔵はおや、と思った。
「二条城番なら、おれの顔を知っているだろうに」
男は半蔵の胸中など知る由もなく、ついに本身を抜いた。闇夜にぬらりと銀線が光る。
「水心子
(すいしんし)二尺八寸か。えらい豪刀をお持ちのようだ」
半蔵は男に向かって言った。
通常二尺三寸の大刀だが、それ程の刀を持つのは余程の腕自慢か見掛け倒しであろう。
「なんや。抜き身のほうは、そないご立派なもんとちゃうかったくせに」
女が火に油を注ぐような悪態を吐く。抜き合わせるつもりのない半蔵は、弱った。
「何だと、くそ女」
「ほんまのこと言うて何が悪い」
「よせ」
と、半蔵が横槍を入れる。
「お前のほうこそ犬みたいに善がっておったくせに。悦ばせてやって金まで寄越せってのは、どういう了見だ」
「演技に決まっとるやないの。商売やさかいにね」
埒があかない。半蔵にとっては、そもそも辻君と客の喧嘩なぞかかわりたくもなかったのである。
「相判った。ここはおれがこの女に金を払うてやるゆえ、そこもとはとっとと去ね」
半蔵は堪りかねて、そう提案した。男は引き下がるかに見えたが、
「金の問題じゃああるまいよ、兄さん。何処の御家中の者か知らんが――」
言い掛けて、漸く怒りが冷めてきたらしかった。半蔵の掲げた提灯の紋に気付いたらしい。
「星梅鉢紋ということは、御貴殿は」
「とにかく刀を納めるがよかろう。今夜あった事は、誰にも口外せぬゆえ」
半蔵が男の動揺を覆うかの如く、言った。弱冠ながら、落ち着き払った声音である。
男は慌てて水心子を鞘に納めると、何度も半蔵に向かって頭を下げつつ、脱兎の如く駆け去った。
男が消えると、女は漸く立ち上がり、安堵の息を吐いた。
「ああ、助かった。おおきにありがとうやす」
女は嫣然と笑んだ。仄明かりの中で見る女は、既に身繕いを済ませており、ぱっと見安女郎には見えない垢抜けた色香が漂っていた。
然程の美女ではないが、あでな空気を纏う。声は若やいでいたが、よく見ると三十は越しているのかもしれない。元何処かの置屋の売れっ妓で、年を取って辻に立つより仕方なくなったという雰囲気がした。
「はい」
女は半蔵に手の平を見せる。
「ちゃっかりしておる」
武士に二言はあるまじ。半蔵は男にああ言った手前、代わりに金を払った。
「こないに頂けますのんか。わあ、嬉しいわ」
女は半蔵から手渡された小粒銀をぎゅっと握り締めた。女は屈託無く笑いながら、半蔵の羽織を撫でた。
「お兄さんもうちをと遊んでおいきやす。こないに貰うたら、せいぜいきばらせて貰わな」
「要らんよ。急ぎ上屋敷に戻らねばならんおだ。いつまでも道草を食っているわけにはいかん」
半蔵は、すげなく女の手を払った。
「まあ、道草やなんて。女子を抱くのは道草ですかいな」
「そういう意味ではない。兎に角、その金でほとぼりがさめるまで商売はせんがよかろう」
半蔵は女に向かって言った。本心からである。辻君をやめろとまでは言えないが、通りすがりの半蔵に出来るのは、そのくらいの事なのである。
「おおきに」
女は手の中の銀を転ばしつつ、上目遣いに半蔵の白い顔を見た。
「せやけど、お侍様。何でうちらのような者に、そないに親切にしとくれますのん」
「専ら主君の御意向なのでな。それに、お勤めするまでだ」
「お侍様の主様
(ぬしさま)はやさしい御方どすなァ」
女は目を細めた。何処と無く、儚い気品のある表情だった。
「江戸から来はった定番や御留守居やなんか皆、武張った田舎もんで、そのくせ鼻の下伸ばして京女と遊ぶことばっかり考えておいやす思うとったけど、ちゃいますのんなァ」
「やさしいのやさしくないのではのうて、武士に限らず男はそうあって当然なのだ」
半蔵は答えた。しかし、辻君相手に男の本懐を語っても仕方が無い。半蔵は切り上げて、踵を返した。
「待っとくれやす。御名前をお聞きしてもよろしおすやろか?うちは、ゆう言います」
「服部半蔵」
「ええ、服部半蔵言うたら、あの東照大権現様の御家来衆――」
おゆうが訊き返そうとした時、半蔵は既に早々と小径を歩き出していた。北野天神の梅の香が夜の静寂
(しじま)を、ほんのりと飛んでいた。
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