(三)

 間もなく弥生になろうとしている。
 春の天候は移ろいやすい。
 朝は青空かと思えば、もう半刻も経たぬうちには西の空が曇ってきた。
 生暖かい風の中を、半蔵は歩いていた。もうじき日は暮れる。
 本日は出仕日ではないが、半日だけ執務の残りをこなし、午後から休む許可を得た。それも門限までに帰ることが出来ぬ旨を届け出た。主の松平定敬も一橋邸へ行き、遅くなるというので問題は無かった。
 半蔵は佐川殺しの件について、いくつか疑問を持った。
 役宅に戻ろうとする時、横目の立見鑑三郎と出くわした。同年輩の鑑三郎は、大番・町田老之丞の弟であり、江戸生まれも同じ。半蔵とは幼い頃から道場や学問所で知った仲である。
 といっても、家老の家系に生まれた半蔵と、中老格の出身の鑑三郎とでは成長するに従い、接点が薄れて行った。性格も異なる。
「立見どのにお聞きしたいことがある」
 珍しく、半蔵のほうから話し掛けた。
「何でしょう」
 立見は大きな体をぴんと伸ばした。半蔵は佐川の死を仔細に説明し、それが何れの手錬に拠るものか推測出来まいか、と訊いた。
「いきなり難題を仰るな、服部どのは」
 鑑三郎は唸った。剣を取っては藩内の若手で一、二を争うという鑑三郎なら判るのではないかと踏んだのだが。
「発見した町人の話によると、鯉口も切っておらなんだ様子だ。とすると、背後からの不意打ちが妥当だが、傷は右肩からばっさりと胸元を横切っている」
「抜き打ちの早業か。余程相手に油断をしていたかでしょうな」
 鑑三郎は腕組みをした。こんな気軽な動作を許されるのも、互いが昔からの誼を持つゆえである。
「佐川という男は、水心子をぶら下げている剛の者だ」
「見かけ倒しでは」
「そうでもなかったらしい」
 同輩の真鍋によると、佐川がその水心子を抜いたのを二度見たことがあるという。単なる脅しでも道場剣でもなく腕は確かだったと述べている。
「油断していたにしても、刀を楯にする暇もなかったんでしょうな。すると、相手は顔見知りでしかも相当な居合流の使い手」
「そのような過激派浪士が下手人か」
 或いは、佐川が評判通りの男なら必ずしも浪士とは限らず、奉行所関係か幕臣ともいえなくもない。釣り糸を垂れるにしても、生け簀や湖沼どころか大海に向かっているようなものだといえた。
「何か引っ掛かるわけですな、服部殿の胸裏には」
 と、鑑三郎は白い歯を見せた。
「奉行所のことは奉行所に任せておくがよかろう。ですが、貴方は昔から気掛かりがござると一つ一つ解決せずにはおられん性質でしたか」
「昔っからとは、どういう意味だ」
「それそれ、そういう所です」
 はははと鑑三郎は笑って去って行った。半蔵は釈然としないまま、鑑三郎の広い背中を見送った。
 とはいえ、鑑三郎に佐川が北野で辻君を買っていたとは言い難かった。専ら、半蔵の疑問はそこにある。そういうわけで今、半蔵は一人上七軒あたりを目指して歩いているのだった。
 果たして、天神門前町のところまで来ると、夜店が賑わっていた。
「今宵は夜市だったか」
 二十五日の市の日である。数年前までは治安も悪く、京の夜市は軒並不況で開かれることはなかった。
 しかし守護職が置かれてから又、復活した。
 夜市では辻君も忙しなかろうと半蔵は思いながら、上(かみ)へ上へと進んで行った。
 すると、不意に半蔵の袖を引く誰かがいた。
「あら、すんまへん」
 引いていたのではなく、女が持つ花の枝が引っ掛かったのであった。化粧をしたたかにはたいた女は、はっと目を剥いて身を翻すや、半蔵に駆け寄った。
「まあ。お怪我はおまへんやろか。いや、高いべべに傷付けてしもうたか知らん、どないしましょ。ちょっとようく見せておくんなさいまし」
 女はやや太り肉の身体を押し付けるようにして半蔵を脇道へ押しやった。濃艶な白粉の匂いに、半蔵は頭がくらくらした。女は半蔵の顔を舐め上げるようにして見遣ると、
「なァお兄さん、うちの体買うとくりゃす。年の割にはええ体や言われますのんえ」
 枝を引っ掛けたのは、鴨を捕まえるためのわざとだったのだ。
 明らかに上士とわかる為りをしていても、ずけずけと年増の体を押し売りしようとしてくる辻君の攻勢に、半蔵は面食らった。王城の地は何もかもが若輩者の己より上手と見えた。
「おゆうは」
 と、半蔵は覚えず訊いた。女は半蔵から身を離す。媚を含んでいた顔に、少し険が混じった。
「お侍様、おゆうのお馴染みはんどすか?」
「おれは客ではない。過日、客に酷い目に遭わされていたところを助けただけの者だ」
 ふん、と女は鼻を鳴らした。
「何やそうかいな。ここ暫く、あの子の顔は見てへんけどな」
 女はおもんと名乗った。どうやらこの辺りの私娼としては、古株らしい。
「おゆうはね、半年ほど前からここらへ来よったんですわ。まァ事情は知らんけどね。大体うちらの商売するいう理由なんか似たり寄ったり。宿六が病気か借金持ちやとか、親に死なれて行くとこない娘やとかね。おゆうもそんなんやろ」
 おもんは半蔵に銀を与えられ、知る限りの事を喋り始めた。
 ただ、おゆうは北野界隈に住んでいるのではなさそうで、遠くから此処まで通ってくるらしい。商売が商売だけに、自宅から離れたところで春を鬻ぎたいと思うのが、女達のせめてもの恥じらいなのであろう。そこは、おもん達もお互いに詮索し合うことはなかった。
「うちらにとっちゃ好敵手やからね。おゆうは若うはないにしても、何とはなしに気品があるいうて人気があってな。夜桜に気品もへったくれもあるかいな思いますねんけどな。うちのご贔屓はんも、うちが都合悪かった時いっぺんだけおゆうと寝たら、何ともいえん雅な心地になった言うとりましてん」
 おもんは鼻の頭に婀娜っぽい皺を寄せつつ、言った。
「おゆうはどっか新地の落ちぶれ芸妓か、大店のおかみはんやったんやろか。ま、どうでもええですわいな。今はお互いしがない夜舞いやさかい」
 辻君のことを、夜桜や夜舞いともいうのだとおもんは半蔵に教えた。
「こないだのような踏み倒しをする男は多いのか?」
 半蔵が疑問を投げ掛けると、おもんは大きく頷いた。
「年増やでいうて念を押しとうのに、値切り倒すやつやの、こっちが身繕いしとう間に逃げるのんとかね。せやし、うちは前金半分払いにさせて貰うてますわ」
 島原芸妓のように公認でもなく、密かに身元がばれぬよう商売をせねばならない女の足元を見ている輩の如何に多いことか。だが、辻君を買う男達もまた、貧困に喘ぐ者ばかりなのである。
「この間、踏み倒しをしようとしていた男は、おゆうの馴染みなのか?」
「何度かはね。けど、あのお侍はんが来たら、おゆうは気乗りしいひんいう顔やったねぇ」
 おもんは思い返すように言った。
「何とはなしに、ただおゆうが気に入って買いに来とった感じでもなさそうやし。そのお侍はんがどないかしはったん?」
 いや、と半蔵は首を振った。おもんの耳に入れたところで仕方が無い。
 半蔵は、遊んで行きィなと袖を引っ張るおもんを断って、北野界隈を離れたのだった。

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