(四)
日常は行雲流水の如し。年が明けてから再び持ち上がった将軍再上洛の話も本格化した。
そうなると、又京洛は色めき立つ。漸う天狗党の乱の後始末が終わりつつあるというのに、桑名藩は主君ともども気の休まる暇も無い。
更に、天狗党の一件では禁裏守衛総督たる一橋慶喜の評判は、攘夷派連中に頗る悪い。
水戸家の出身でありながら幕閣の機嫌を伺って身内を切り捨てたと、京坂の浪士も江戸の直参らも、蔭で「二心公」と囁いている。そうした血の気の多い者どもから、兵を持たぬ一橋家や禁裏を守らねばならないので、会津藩ともども緊張を強いられているのだった。
多忙の最中だが、半蔵はどうにも死んだ佐川又兵衛とおゆうの事が気になっていた。
おもんから聞いた話では、両人は私娼と客という間柄以上の何かがあるように思える。さりとて、佐川が殺された事情と係わるかどうかはわからない。
しかし兎に角、謎めいている。何がしか確かめようと、半蔵は再び北野へ向かった。
おゆうはその晩、現れた。
半蔵は小径を歩くおゆうのゆったりした足取りを見て、覚えず草叢に隠れた。提灯を吹き消す。
やがて、男がおゆうを組み敷く気配がした。衣擦れの音と草葉の揺れる音。それから女が忍び音を堪える様なくぐもった声を聞きながら、半蔵は時の経つのを待った。
「夏でなくて幸いした」
こんな草の中では、藪蚊に食われて居た堪れないだろう。
只でさえ、このような所で何刻も黙って過ごすのは辛い。
おゆうの声を聞きながら、半蔵は桑名に残してきた若妻のことを思い出した。半蔵より三つ下で、昨年嫁いで来たばかりである。部屋住みの半蔵も、それなりに忙しなく、江戸と京、桑名を往復する日々で、殆ど妻を顧みる余裕が無い。
一つ床に入ったのは、両手で数えられる程ではあるまいか。
本来は家老になる者の妻として、江戸屋敷に居るべきが、深珠院、初姫、高姫らに従って御国入りした。京と桑名は近いが、かといって会う事もない。
ややあって、男が金を払って草叢を抜ける姿が見えた。
おゆうはまだ動かなかった。商売ゆえ余韻を楽しむでもなかろうが、一つ大きな息を吐き、ゆるゆると立ち上がった。半蔵は頃合を見はからい、おゆうの後を追った。
今晩はこれで終いなのだろうか。おゆうはどんどんと早足に歩いて、五辻を抜け、西へと向かう。
おもんの話では、此処らの女ではないということだが、では一体何処から来るのかと半蔵は訝りつつ足音を忍ばせて尾行した。
やがて普請中の守護職屋敷の前を過ぎると、おゆうは南へ下り、また真っ直ぐ行っては北へ折れ、二度それを繰り返して、漸く或る所へ辿り着いた。
まるで人目を気にして、恰もつけてきた誰かを巻こうとしているかのようだった。半蔵は巻かれることはなかったが。
おゆうが立ち止まり、吸い込まれるかのようにしてひっそりと入って行った其処は、公家屋敷の一であった。
「何と」
半蔵は、闇の中で瞠目した。見たところ公家屋敷といっても、平堂上ばかりの立ち並んだ筋である。
おゆうは堂上家の下女であるのか、それとも姫であるのか。
「何れにせよ、必要以上に人目を憚る理由が知れた」
半蔵は半ば驚きつつも、提灯に火を入れ直し、再び夜道を歩き出したのだった。
翌日は晴天であった。
風の為に雲一つない空は青く澄み切っていたが、やや肌寒い。
松平定敬は、毎日出仕の前或いは執務の後に乗馬をする。出掛ける馬場は時々に違うが、所司代屋敷から漆黒のアラブ馬が出入りする姿は雄悍そのもので、二条城周辺の一種の名物となっていた。
洋馬に洋鞍を置き、四布袴に陣笠という出で立ちの定敬は、絵に描いたような若武者で、それが堀川通を闊歩するものだから、嫌でも人目を引いた。
半蔵は定敬に従って、遊歩の供に出た。
「顔色がすぐれんな、半蔵」
定敬は、馬上から声を掛けた。
「いえ、御前様。ご心配頂戴するには及びませぬ」
「おぬし、佐川又兵衛という奉行所与力が殺害された事を気に掛けているらしいな」
定敬に星を突かれて、半蔵はぎょっとなった。普段、同輩や上司にも冷静そのものの面つきしか見せたことがないが、主君にだけは弱かった。
「鑑三郎が言うておったらしいぞ」
口の軽い、と半蔵は眉根を寄せた。
「奉行所に任せておくがよかろう――と言っても、律義者のおぬしのことゆえ、佐川とは何ぞ因縁があるのだろう?」
そう訊かれると、ありのままを答えねばなるまい。若い主君は興味津々なのだ。
「実を申し上げますと」
と、半蔵が北野での出来事を詳らかに話すと、定敬はしみじみとして言った。
「おぬし、そのおゆうとやらに懸想しているのか?」
「滅相もございません」
しゃっちょこ張った顔で、半蔵は背筋を伸ばした。定敬はくつくつと笑う。
「京の女子はよきものというではないか。佐川の気持ちも満更わからんではない」
「御前様」
「しかし情が強いのも京女。深入りせぬが身の為ではなかろうか」
定敬は、見てきたように言う。御召の側女に京女はいなかったのではないかと思うが。
「私には、佐川の斬殺とおゆうの存在が係わりあるように思われるだけにございます」
「然様。ならば得心の行くようにするといい。外出は程ほどにな」
そうは言ったが、定敬は暗に半蔵の好きにしてよいという事を言っている。
そこで半蔵は、早速また北野へ出向いたのだった。
今晩は袴を脱ぎ、髷も町人風に結い直した。提灯も無紋である。
上七軒の華やかな灯りの下を潜り、天満宮の方へと抜ける。斜交いに奔った小径の向こうは藪である。
藪の奥から辻君らが手招きをする。ぼんやりしていると、また前のように袖を引かれるが、おゆうではない。二、三人見送って歩いたところで、おゆうを見付けた。幸い、まだ客は付いていなかった。
「お兄さん、ちょっと」
通り過ぎようかすまいかと一瞬躊躇った時、おゆうの方から声を掛けてきた。半蔵は近付いた。
提灯は下げ気味で、お互いの顔がよくわからない。半蔵は「おゆうどの」と呼び掛ける。
「えッ」
おゆうは目を剥いた。
「あんさんは、服部半蔵はん。うちを抱きに来てくれはったん?」
おゆうは半蔵と判ると、警戒を解いて嫣然と笑んだ。だが、半蔵はむっつりしたまま首を振った。
「この間の客、佐川又兵衛という男だが。その男が殺された。おぬしは知っておるか」
「へえ」
と、些か頼りない返事がおゆうの口から出た。
「そういうたら、最近ここらで見かけん思うたわ。うちはてっきり半蔵はんが追い返したんで、近寄らんのや思うてました」
「佐川は東町奉行所の与力だということだ」
「どこぞの藩のお侍はんか、同心かと思うてましたけど、そやったんどすか」
おゆうの声は平坦だった。
「半蔵はんも、お奉行はんにお勤めですか?けど、そやったら知ってましたわなァ。佐川はんのこと」
半蔵、と親しげに名前を呼ばれるが、おゆうの物言いは何となく優雅で嫌な感じはしない。
「佐川はんを殺した人間を捜しておいでなんやね」
「そういう事だ」
「うちに訊いてもしょうないですよ。ここ暫くは商いに出てへんかったけど、それにはちゃんと理由がおますのや」
「堺町筋御門筋の堂上家、池下家の御用か」
おゆうが息を呑む音が聞こえた。薄暗がりの中、白い貌が強張るのさえ、半蔵には瞭然と判った。
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