(六)

 丸太町界隈を、振り売りが歩いている。
 百四五十坪ほどの御屋敷の木戸が開いた。
「まあ、珍しいどんな。豆腐屋はんでっか。朝早うからおきばりやして。入っとくんなはれ」
 呼び込まれた若い売り子が、いそいそと塀の内へ入った。背が高いので、うんと腰を曲げて勝手口から進む。
 公家屋敷の雑掌らしい白髪の男は、厨の中まで豆腐屋を招じた。
「あんまりお見かけせんお顔やな。新しいお店でっか」
「へえ。押小路堀川前に構えました、伊賀屋のもんどす」
 と、答えるのは実は服部半蔵であった。入り込んだ屋敷は池下宏行の屋敷。
 所司代屋敷出入の豆腐屋を説得して、衣装と売り物を貸して貰ったのである。京言葉は付焼刃だが、屋号からしてか、そう怪しまれてもいない。
「今後ともご贔屓に」
 半蔵が頭を下げると、雑掌は、
「そら殿さん次第どすなァ。身ィは細っても口は肥えとう仰いますさかいにな」
 半蔵は老人に言われるままに絹漉し二丁と油揚げ三枚を差し出した。
 雑掌の老人が嬉々として新顔の豆腐屋を呼び込んだのには、理由がある。摂家や清華家、大臣家などの公家はそれなりの生計を立てているが、池下家のような貧乏公家が相手では、売り歩きの行商人は商売にならないのである。
 引き入れられれば、喜んで購うが、節季に集金に行くと「献上品ではなかったのか」と言い返されるだけである。従って、この付近を行商人は敬して遠ざく場所としている。
 新しい豆腐屋は、何も知らず引っ掛かったと思われているのだ。半蔵は逆にそれを利用して、やすやすと池下家に入り込んだ。
「身は細ってもて、お殿さんは何ぞご病気ですかいな」
 さりげなく、半蔵は話を振った。
「それが胸の病で長う寝付いておられます。御役にも就かず、お気の毒で見てられしまへんのどすわ」
 よくぞ聞いてくれたといわんばかりに、老人は語り始めた。
 話は、おゆうこと池下由布から聞いていたのと、ほぼ同じ内容といえた。
「御不幸続きであんまりどすな。それにしても、お姫さんお一人やったら、今後はどないされますのやら。いや、わてのような豆腐屋風情の心配するこっちゃあらへんのは、重々判っておますけんど」
 半蔵は、しんみりとした表情で誘い水を打った。老人は、すると渋い顔になった。
「それですわ。なんぼ離縁されたかて、まだお若うおす。半年ほど前ですけどな、実は縁談があったんですわ。お武家はんとこと」
「江戸のおさぶらいしゅうどすか」
 別段、平堂上と武家の縁談は珍しいものではない。むしろ、大大名の中には正室は、必ず公家から迎えるという家もある。富裕な商人が貴人の血を入れたがって、平堂上から嫁を迎えるということも、しばしばあった。
 腐っても公家の姫君であり、貧乏な堂上は多額の婚礼支度金を貰って少しでも家計の足しにしようとする。以後は、婚家からの献上品だのが期待出来る。
 将軍家への和宮降嫁も、莫大な金が公卿らに積まれた。
「佐川又兵衛はんいう東町奉行所の与力どした」
 老人の言葉を聞いて、半蔵は覚えず飛び上がりそうになった。豆腐を入れた桶を抱えていることを辛うじて思い出し、吃驚の声を抑えたのだった。
「どうやら、お姫さんが外出しはった時に、なんやごろつき共に絡まれたところを佐川はんに助けて貰ったそうどす。それで、佐川はんが見初めはったとか」
 佐川も三十過ぎの男やもめ。一度、女房に逃げられているという。再婚にはなるが、出戻りそれも曰く付きの由布にとっては悪い話ではない。
「正直な話、この有様ではお殿さんの薬代もつけが溜まる一方で、食うていくのもかつかつですさかい、お殿さんもどうやと勧めはったんどす」
 ところが、由布は縁談を断った。
「佐川はんは、お殿さんの面倒も見たる言うて、薬屋のつけもみいな払うてくれはったんですけどねぇ。何が気に入らんかったのやら」
 何ということか、と半蔵は胸中で唸った。そして、次第に佐川殺しの謎が解れていきつつあるが如く気がしてきた。
「そら、そうかもしれまへんなァ。なんぼ貧乏暮らしかて――失礼、堪忍下さいや、心は売られしまへん。お姫さんは御自分が堂上の娘や、武家みたいな下品な荒くれ者のつれあいにはなられへん思わはったんちゃいますやろか」
 半蔵が言うと、老雑掌はうんうん、と何度も深く頷いて、涙ぐんだ。
「けど、もしかしたらお姫さんには、他に言い交わしとうお人がおらへんやろか?」
「わかりまへんなァ。何や時々、怪しげな若いのはうろついておますけど、お姫さんはべっぴんはんやし、勝手に懸想してくるもんは多いんどす。二十五、六には見えまっさかいになァ」
 老人は首を傾げた。
「そないにべっぴんはんどすか」
「出戻りには見えしまへん。せやから、後妻の口が掛かるんどす」
「今はお留守どすか」
「内職のかるたを届けに行っとおりやす」
 半蔵は、雑掌の老人から訊き出せるだけ訊き出すと、また豆腐を担いで丸太町通を西へと歩いて行った。
 直ちに所司代屋敷に引き返し、烏丸仏光寺角の田端屋へ向かわねばならない。おゆうがそこへ出来上がったかるたを届けに行っているという。
「それにしても、豆腐の何と重いことか」
 春まだ浅いというのに、額から背から汗が滲み出て来た。躍起になって豆腐桶を持ち帰ると、半蔵は濡れた体もそのままに、袴だけ着け直して町人髷のちぐはぐな姿のまま、屋敷を飛び出して行った。
 奉行所に顔を出すと、真鍋左内が目を剥いた。
「何です、その為りは服部様」
「急いでいる。おぬしでも誰でもよい、おれの後から付いて来てくれ」
 真鍋は半蔵に言われるままに、付いて小走りに走った。ところが、長身痩躯の半蔵は一歩の幅も大きく軽快に走るが、対して真鍋は小太りで小柄ゆえにちょこまかと動く。御池通を越える前に、五間ほども引き離されてしまった。
 真鍋が漸く半蔵に追い付いた時、綾小路通を目前にして半蔵は立ち止まっていた。
 真鍋を手招きする。煎餅屋の脇から、二人は烏丸通を見遣った。
 ゆったりと歩いてくる公家風の女は、おゆうだった。両手に桐箱を抱えているようだが、恐らくそれは次のかるた書きの請負であろう。並んで歩く男がいた。
 まだ二十三、四と思しき若い公家髷の男である。顔付きは卑しからず、精悍でさえあった。
「姉弟どっしゃろか」
 真鍋の言葉に半蔵ははっとなった。傍目には、一件優しい姉と逞しい弟のように見える。
「いやあれは、もしや――真鍋どのはあの二人には見覚えは?」
「はて。お公家はんには知り合いはおまへんですな。けど、あの若殿はんのほう変やな。歩き方が不自然や。びっこ引いたるような」
 真鍋は談笑しつつ上へと歩いて行く男女を睨んだ。
「まさか、あの男が」
 禁裏付同心の安井庫吉と奉行所与力・佐川又兵衛と殺害した男なのであろうか。
「吉岡いう姓の公家なんぞおったやろか。せやかて、堂上の身内をお縄にかけるんは厄介ですわ、服部様」
 唸る真鍋に、半蔵はいや、と首を振った。
「あの若殿は吉岡ではない。富小路直尚だ」

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