(一)

 夏が終わりを告げようとしていた。
 藪蚊はそんな季節の移ろいなど、お構いなしらしい。
「まったく墓地というのは、幽的のように足が無いのは理にかなっているな」
 山南敬助は、つとしゃがんで草履の隙間の足指を掻いた。ぽちっと二点、赤く刺された跡がある。
 痒いと思えば痒い。痒いと意識しなければ忘れる、と郷里で祖父が鹿爪らしい顔をして言ったのを、思い出す。
「しかし、痒いものは痒い」
 指をむずむずさせながら、墓前に立つ。山南は、野口健司の墓に仏花を捧げた。
 月命日には必ず墓参する。野口に限らず他に病気や見廻中の事故死で落命した隊士らの為にも、山南は墓参を欠かさない。
 皮肉な事に、粛清で人死が増えれば増えるほど、山南の習慣も増えていく。
「きりがありませんよ、山南さん」
 と、沖田総司だか誰だかが言った。しかし、
「やめてしまうとなると、総てやめなければなりません。そうすると、墓は一顧だにされなくなる。隊士達は近在の者ばかりではありません。近くに居る者が手を合わせてあげることが大事ですよ」
 山南はそう言ってやめるつもりはない。
 "親切者は山南"の名に恥じない徹底振りだ。
「沖田さんにはそういうのは、馬の耳に念仏ですよ」
 いつの間にか背後に斎藤がいた。この男、神出鬼没である。
「ああ、斎藤君か」
「さっきまで、寺の境内で子供らが隠れん坊をしていたので、仲間に加わっていたんです」
 と、斎藤は仏頂面で答えた。
「君が隠れん坊をねえ」
「沖田さんの代役ですよ」
 三条小橋東詰の池田屋の斬込みののち、沖田は夏風邪をこじらせて床に臥せっていた。
 というのは表向きで、実際は労咳が疑われていることは、山南をはじめ斎藤も、試衛館以来の仲間の殆どが知っていた。
「君で代役がつとまるのかい?」
「一応は。おれが鬼の役です」
「そうだろうねえ」
 山南は藪蚊に食われた跡を気にしながら、笑んだ。
「あからさまに肯定しなくてもいいでしょうに」
「いやいや。君の様な大兵では、この壬生寺の境内の何処に隠れられようかとね。井戸の中か墓の裏か、それとも鐘の中」
「道成寺じゃありませんよ」
「はははは」
 笑っている山南と斎藤の脇を御辞儀して通る者がいた。若い女だった。薄紅色の単も涼やかに、触れれば漆黒つきそうな島田の髪、少し傾く項の白さ。
 女は墓のいずれかにというのではなく、全てに一輪ずつそっと白い花を捧げて、また立ち去ろうとした。ぼんやりと女の美形ぶりに見惚れていた斎藤は、山南が女を呼び止めたのに気付かなかった。
「あの、あなたは此方の野口君らの御縁者ですか?」
 いえ、と女はかぶりを振った。浮世離れしたような微笑が、薄っすらと女の顔に浮かんでいた。
「そうですか。お近くの方ではないとお見受けいたしましたが。私どもは、この墓の縁者でして。御供花御礼申し上げます」
 山南が恭しく礼を言うと、女はまた不思議な笑みを湛えたまま、少し腰を折った。
 女がそのまま去って行こうとするので、山南は、
「もし、お名前は?」
「夕顔にございます」
 女はしとしとと歩いて、壬生寺を出て行った。その後姿を見詰めている山南に、斎藤は咳払いをした。
「何ですか、山南さん。あの女に惚れちまったんですか?」
「まさか」
 山南はくつくつと笑った。
「何処かで見たことがあるような気がした。夕顔と名乗るとは、面白い」
「ゆうがおって、あの花の夕顔のことですかね」
 斎藤は、女が墓前に残していった白い喇叭状の大輪の花を指した。
「『源氏物語』に出て来る女性ですよ。光源氏の君が、五条の辺りのみすぼらしい住まいの女を寵愛した。それが実は、源氏の友人で妻の兄にあたる頭中将の思い人と知らずにね。女は歌に夕顔の花を添えて寄越したので、夕顔という」
「女子の好む物語に馴染みが無いので、存じませなんだ」
「それだけではありませんよ。今さっきの光景は、まるで『半蔀(はじとみ)』だ」
 能の『半蔀』と気付くまでに、斎藤は大分時間が掛かった。
 昔、紫野雲林院の僧が修行を終えたので、仏花の供養をしていると、何処からともなく里の女が現れて、白い花を供えた。僧が女に名を尋ねても、夕顔の花としか答えなかった。
 家は五条辺りに住んでいたと告げて、花の陰に姿を隠してしまう。
 すると、所の者が現れ、光源氏と夕顔の話を僧に聞かせ、花を供えに来たのは夕顔の亡霊に違いないという。
 僧は所の者に弔いに行くよう勧められ、五条辺りまで訪ねて行った。果たして、夕顔が仄かに咲いている一軒の廃屋があった。
 夜になると、中から女の声がするので僧は姿を見せるようにと言った。すると、半蔀が開かれて、女が現れた。その女は、夕顔の花が取り持つ縁で、光源氏との馴れ初めを思い起こし、舞いを舞った。
 やがて夜が明ける頃には、夕顔の亡霊は再び半蔀の中へ消えて行ったのだった。
「へえ。それでは我々も夕顔の住まいを訪ねてみますか?」
「面白いがね。今夜は会合が入っているので、まず無理だよ」
 京の情勢も慌しい。長州勢が追討されるのも間近だという。新選組とて、暢気に風雅を決め込んでばかりもいられないのだった。
「亡霊でもとにかく、いい女だったな」
「本当に足が無かったかもしれませんよ。藪蚊に食われもせず、涼しい顔でしたからね」
「確かに。藪蚊の奴、おれの足にもいっぱい食いつきやがった」
 斎藤は俄かに痒みを覚えてきたらしく、足の甲を遠慮会釈なく、ぼりぼりと掻き出したのだった。

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