(一) 

 この春、藤田五郎は一枚の辞令で警視局から警部試補に命じられた。
 毎朝本郷の自宅から闊歩して通っている。
「東京になっても江戸は埃っぽいナ」
 と五郎は思う。一日歩くと革靴は黒いのが白茶けて見えるほどだ。だから平生は、なるたけ昔のままの羽織袴に高足駄が好きだ。
 ところが上手い具合に、もう少しで警視局というところの四つ角に靴磨きの老婆が商いをしている。いつからその老婆がいるのかは、五郎もとんと記憶が無い。何しろ警視局に入ったのが先年の二月なので、それまでこの界隈は滅多なことで通ることはなかった。五郎のかつての経歴から、あまり新政府の省庁があるところを出歩く気がしなかったのもある。
 二刀差に前髪上げた頃から身形は正しくないといけない、とりわけ足袋や草履など足元には、と思う五郎は、とにかく気付くとその靴磨きの老婆のお世話になっていたのである。
「旦那さん一年ぶりだね」
「よく覚えているな」
「忘れるわけありませんよ。また警視局に戻ったのかい」
 老婆は五郎の顔を見ずに答えた。
「他にすることがなくてね。ヤットウしか能がないもんでな」
「立派なもんだよ」
 五郎は黙っていた。老婆が靴を磨いている間、己の手を見てみる。「人斬り」が立派な稼業だなどと、一度も思ったことがない。
 「立派な」というその言葉が、五郎の脳裡のある記憶を引き出した。

「藤田様は何故、他の職員のかたがたとあまりお口をきかれませんの」
 やえは、まだ十六歳かそこらの娘だったように記憶している。
 警視局に勤めてはじめて、女の職員がいるものかと思ったが、それは五郎の勘違いであった。省庁の庭掃除や給湯をやっている平蔵という老爺と一緒に働いており、いわば女中のような雑務をしている少女だった。平蔵の孫娘であろう、と思った。
 五郎は面食らった。三十も過ぎ所帯も持って、若い娘から声を掛けられることも珍しかったが、突然穿った質問に、内心驚いたのであった。
 それまで殆ど口もきいたことがなかったというのに。
「別に理由は無い」
 五郎はそう答えたような気がする。
「昔から、人付き合いがどうも不得手で」
 そうですか、とやえは小声で言った。
「あの。若い羅卒の方々の中には、藤田さまがあまり無口でらっしゃるので、恐いとか何か過去に曰くでもあるお方なんじゃないかと」
 密かに懼れていたことが、かくもいとけない娘の口から出るとは。五郎は悄然となった。過去の曰くとは言うまでも無い。
 己がかつて弱冠の頃、京で「みぶろ」と恐れられた新選組に所属していたとは。かつ、隊内で一、二を争う殺人剣の持ち主、斎藤一だった事は。
「……御存知かもしれんが、私は御一新前会津様の家中にいた。戊辰の戦の折には幾許か酷い事もしたので、局内で当時東軍に所属していた者の中には、いまだに私を蛇蝎の如く嫌っておる連中もいるだろうな」
 五郎は、やえから渡された湯飲み茶碗を受け取った。煎茶の香ばしい香りが鼻先に上り立つ。
「そうですか。差し出がましいことを言ってしまってすみませんでした」
「いいんだ。会津様の元で働けたことは、生涯の誇りだ。その御蔭でこうして、今も警視局に入る事が出来た。所詮、ヤットウしか能の無い人間だからな」
 すると、やえは首を振った。
「いいえ。ご立派ですわ」
 その時の少女の目が心なしか潤んでいたのを、五郎は微かに記憶している。
 それから、五郎は出庁して暇がある時、平蔵とやえと暫し談笑する機会が増えた。実は、やえは平蔵の孫でも何でもないことに気付いたのは、五郎が西南戦争の為に九州へ出征する直前のことだったが。
 五月の或る日、五郎はいつものように平蔵のいる用務員室に向かうと、小暗い部屋の片隅にやえがいた。
「平蔵さんは?」
「お爺さんは腰を痛めてるんです」
 やえは言った。
「明日は横浜へ行かれるんですね」
 ああ、と五郎は答えた。横浜港から、九州へ向かう為の船に乗る。
「無事で戻ってきてください」
 その保証はない。今朝方、幼子を抱いた妻・時尾にも言われたが、何故かこれまでのような確かな安心感はなかった。
 やえは、沈黙している五郎の様子を見て少しもじもじとしていたが、やがて思い切ったように言った。
「お願いがあります」

「そういえば、あの小使さん見かけないねぇ」
 老婆は顔を上げた。朝の陽射しが、その皺ばんだ目尻にやさしく落ちた。
「平蔵のことか」
「いや。やえちゃんとかいった娘」
 五郎は何故、老婆がやえを知っているのかと訝った。
「警邏の巡査さんらの長靴が汚れてると持ってきたりね、下駄の鼻緒が切れたんで修理したいんだと見せてくれたりよく来たよ」
 知らなかった。
「先月だったかね、男物の湯呑を持ってきて『欠けてしまったんでご飯粒でくっつけたんだけど、そこからお茶がもれる、どうしよう』なんて」
 五郎は驚いた。その純粋な驚きがつい顔に現れたらしい。老婆はにこにこと笑っていた。
「お願いがあります。藤田様が使っている湯のみ茶碗を御留守の間、私に使わせて下さい」
 やえはそう言った。五郎は面食らったが、やえの口説に参ってしまった。
「これをずっと使っていると、藤田様がご無事で帰って来られそうな気がするんです」
 正直、五郎にはその気遣いが嬉しかった。なので承知した。恐らく益子焼のような高価なものでもない、常滑焼に似たぼってりした湯呑茶碗を、誰がそのように大事にしてくれただろうか。
 時尾に話すと笑われそうなので、その事はそっと胸の奥に仕舞っておいた。
 出勤した五郎は、挨拶もそこそこに用務員室に行くと、平蔵が座っていた。かんてきに火を起こし、湯を沸かしているところだった。
「あんれまあ藤田様、御久し振りでございます。ご無事で何よりでした」
 平蔵は幾分歳をとったように見えた。禿げ上がった頭髪は、この一年余で真っ白になっている。
「藤田様、その御足は」
 五郎が平蔵に近付くその様は、少し不自然さがあった。戦線で負った左脚の銃創がまだ癒え切っていない。
「名誉の負傷だ」
 五郎は苦笑した。我知らず、その目尻にも少し年齢が加わっているかもしれない、と思う。
「やえは急に縁談がまとまって、先月お嫁に行きましたんですわ」
 平蔵は言った。そうして、茶箪笥の中から袱紗に包んだ湯呑茶碗を取り出し、五郎に手渡した。
「うっかりして藤田様の茶碗を欠けさせてしまったって大騒ぎ。漸くご飯を糊にくっつけたんですが、どうも具合が悪くて。新しいのを買いましょうと言ったんですが、やえはどうしてもこれをお返ししないと、と。それだけが心残りでと言っておりました」
 袱紗を開くと、確かに口にひびの入った懐かしい湯呑茶碗が現れた。五郎は暫し見詰めていたが、やがて込み上げる思いが知らずその口許に滲み出たようだった。
「欠け茶碗か。今のおれにぴったりだな」
 五郎は己の左脚を軽く叩いて言った。本当に、やえの言葉は言い得て妙だったのだ。まさかとは思うが、この欠け茶碗を棄てていたら己はどうなっていたか。迷信やげんを担ぐ五郎ではないが、何故かふとそんな気がした。
 今となっては、やえに感謝を言うことも出来なかったが。平蔵が振り返る。
「お湯が沸きました。熱いお茶でもいれましょか」

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